僕は流行の波に乗るのが苦手です。
意図的に乗らないこともあれば、乗りたくても乗れないこともあります。
思い返せば、今までの人生それの繰り返しでした。
最近でいえば、「鬼滅の刃」です。もう「~の呼吸」と誰も言わなくなってきた頃に読み始め、突然その言葉を嬉々として連発し、周りから哀れな目で見られていました。
また、世の中が4Gから5Gへと移行しようとする時代に、3Gガラケーから4Gスマホへの華麗なる転身を遂げました。
全てにおいてワンテンポずれているのです。
そして先日、地元・大阪が紅葉の見ごろを迎えた時に、
わざわざ紅葉の時期を過ぎている飛騨へ行って来ました。
意味不明でしょ?。
出発する前に家で観ていたテレビのニュースで、「大阪城公園の紅葉が見ごろを迎えました」と言っていました。
何故そっちへ行かないの?
実は僕、
紅葉が終わった後の風景が大好きなんです。
確かに紅葉は綺麗です。見事な美しさです。
でも真っ赤に燃え盛った後、葉がみるみるうちに落ち始め、地面に落ち葉のじゅうたんができる頃の風景が、一番心に沁みます。
派手な祭りの後に訪れた静寂の時間。
「紅白歌合戦」が終わり、「ゆく年くる年」が始まる瞬間にも似た独特の凛とした空気感がたまりません。
木の春夏秋冬を人生で例えるなら、「晩秋」はちょうど人が老後の生活へ入って行く頃のように思えます。
「老後」という言葉は何となく寂しい、ネガティブな響きとして捉えられがちですが、葉が落ちた後の木々を見ていると、そんな気持ちは失せていきます。
確かに紅葉の時期のような華やかさはありません。ほとんど色彩感のない白黒映像のような世界が広がっています。でも木自体はしっかりと大地に根を張り、幹や枝は変わらず上を向いて力強く伸びています。足元には木が生きてきた証のような落ち葉が地面を覆い、その落ち葉を養分として、また次の時代への準備をしているように見えます。
明るい未来のみを見据えているのです。
たまに自分の老後のことを考えた時、不安な気持ちになることもありますが、晩秋の木々からは「常に顔を上に向けていれば大丈夫だ」というメッセージを感じられ、気持ちが落ち着きます。
そんなわけで、今回はその「晩秋」の素晴らしさを最も味わえるであろう場所へ行って来ました。
「宇津江四十八滝」です。
高山の市街地からは少し離れた、自然まみれの素晴らしい所で、全国自然100選にも選ばれています。
ここは「紅葉」の名所でもあります。「勝手に岐阜県観光大使」さんのブログによると、こちらの紅葉のピークは2週間前には過ぎているようですので、見事な晩秋の風景が観れるはずです。
まずは気持ちを高めるべく、「国八食堂」で腹ごしらえをしました。
鉄板焼き豆腐
これを食べると飛騨へ来たことを実感します。飛騨の忍者赤影さんも食べていたに違いありません。箸とご飯が止まらなくなる恐るべき魔力。豆腐が食卓の全てを支配しています。名脇役は主役を張っても名優なのです。
ここから宇津江四十八滝は車ですぐです。
旬の時期を外すと、もう一ついいことがあります。
駐車場、ガラガラです。
恐らく紅葉のピークの頃は駐車場待ちの列ができているのではないでしょうか。
この時期に訪れるのは一部の晩秋マニアだけです。
まずは入り口で、「清掃協力金」200円を支払います。
これは必ず支払いましょう。さもないと天罰が下り、
山中で熊に襲われますよ。
では、静寂のパラダイスへ出発!
木々を見ると、もう紅葉は完全に終わっていて、いい感じです。
程なくして、落ち葉のじゅうたんが姿を現しました。
ついこの間までは木の一部として真っ赤に咲き誇り、ここでたくさんの人々が写真を撮っていたのでしょう。人生の栄枯盛衰を感じます。僕はこの風景が大好きです。
地面に落ちてなお、木の栄養分として次の時代の礎になろうとする心意気。僕もそんな人間になりたい。そう思わせてくれます。
ここからは、どんどん上へと登っていくのですが、ネットで旅行記などを拝見すると、
「結構短い時間で全行程を踏破できますよ」「楽勝ですよ」的な意見が多かったのですが、実際は
なかなかハード&ヘヴィです。
地面がごつごつで、かなり急な斜面もあり、踏む所を注意しないと足を滑らせます。
ああいう旅行記は「山登り仙人」みたいな人が書いているので、参考になりませんね。
でも、だいたい50mぐらいの間隔で次々と個性的な滝が姿を現し、疲れを吹き飛ばしてくれます。
滝には一つ一つ名前がつけられていますが、もう名前なんてどうでもいいでしょう。
晩秋の静寂の中に響き渡る力強い滝の音色。今までの人生の場面が、湧き出るように頭の中をかけ巡りました。
紅葉の季節には、こんな静かな気持ちで滝を眺めるのは無理です。周りに人がいっぱいいて、マイナスイオンを凌駕する二酸化炭素が排出されていたことでしょう。
あまりにもハードな登りの連続に心が折れそうになったその時、突然視界が開け、北アルプスの山々の神々しい姿が眼前に広がりました。
あれ?あの世に来てしまったのか?
と思わせてくれる非日常な瞬間でした。なんて素晴らしい所なんだ。
まだ滝はこの先も続くのですが、ここをゴールにするのがエンディングの場面には相応しいだろう、ということでここで折り返しました。
足がしんどかっただけじゃないの?
まあ想像におまかせしましょう。
人もまばらで、本当に気持ちの良い、それでいて気持ちがギュっと引き締まるような、極上の散歩時間でした。人生の最終章へ向けて、人がどういう心持ちでいればいいのかを教えてくれたような気がします。
その日の宿、槍見館の周りも素晴らしい晩秋の景色でした。
私は言いたい。
「人ごみにもまれながら必死に紅葉を観て、それで本当に感動できるのですか?」
静寂に包まれた晩秋にこそ、心の底から感動できる風景が存在するのです。
翌日、大阪へ帰る途中に高山市の中心部に寄り、いつもブログを拝見している「大使さん」に会いに行こうと、大使さんが勤めておられる「飛騨レトロミュージアム」へと向かいました。ところが・・・
すっごい渋滞!!
駐車場待ちの列がいたる所で見受けられ、僕の嫌いな「人波」で愛する高山の街が飲まれていました。
帰ろう。
大使さん、またいつの日かお会いしましょう!
「ちょっと待った!そのブログ、まだ終わらないで!」
えっ!?誰?
「私、週刊文秋の根堀という者ですが、今回のブログには不審な点があります。少し質問をしてもよろしいでしょうか?」
いいですけど、何ですか?
「あなたは今回、晩秋について熱く語っていましたが、晩秋の景色を味わうだけならそんなに遠くへ行かなくても、関西にいくらでもいい所があるでしょう?」
ええ、それはまあそうですが。
「ここからは私の推測になりますが、あなたは数カ月前に宿を予約した時、飛騨地方の見事な紅葉を観ようとしていたのでは?」
ドキッ!
「ところがあなたは飛騨の紅葉の時期を見誤っていた。関西よりもかなり早く紅葉のピークが訪れるというのを忘れ、晩秋の時期に予約してしまった。気付いた時には手遅れだったが引き下がれず、まるで最初から晩秋の時期を狙ったかのようにふるまった。」
ドキドキドキッ!
「本当は紅葉を観たかったんでしょう?」
来年は10月末に飛騨へ行くことをここに誓います。